資産の紹介

 遺産群の価値や魅力を伝える映像をご紹介します。

宗像・沖ノ島と関連遺産群神宿る島 沖ノ島
宗像・沖ノ島と関連遺産群 神宿る島沖ノ島(要約版)

研究報告

 平成25年10月12日(土)から13日(日)にかけて開催された「宗像・沖ノ島と関連遺産群」国際学術研究報告会の映像をご紹介します。この報告会は、平成22年度から24年度にかけて実施した国内外の専門家による調査研究の成果を公開し、遺産群の価値について理解を深めていただくために開催しました。

武末純一「沖ノ島祭祀の成立前史」
沖ノ島社務所前遺跡の勒島式土器は、倭の水人世界での宗像の重要性を示す。(伝)沖ノ島出土銅矛から見て、沖ノ島は地域航海祭祀の場でもあった。中広形・広形の銅矛・銅戈を埋納する祭祀の不在や、社務所前遺跡の瀬戸内・近畿系土器からは、ツクシ政権中枢部と同化せず、古墳時代初頭にかけて東の地域と繋がった宗像の姿が浮上する。
柳田康雄「沖ノ島出土銅矛と青銅器祭祀」
ムナカタ地域は、初期青銅武器の製作・研磨技術がないことから、武器の折損や刃こぼれなどの使用痕跡が残り、戦闘・祭祀の模擬戦が推測できる。沖ノ島出土銅矛は、その形態から北部九州製であり、武器形青銅器が集中するムナカタ地域が権力の象徴である銅矛を多数保有する。「イト国」・「ナ国」に元始王権が出現した後は、ムナカタ地域に青銅器が集積され、以東地域に搬出される。この北部九州系青銅器の東漸にムナカタ一族が深く関与する。
篠原祐一「五世紀における石製祭具と沖ノ島の石材」
宗像沖ノ島は、繰り返し営まれた祭場の遺跡によって構成されると考えられてきたが、石製品の分析では、多くの遺跡が、所謂「クラ」の役割を持つ遺構であることを示している。また、当初、畿内から直接持ち込まれていた祭具・奉納品が、5世紀中葉を画期に、奉納品は畿内、祭具は地元となり、最終的には、全て地元の石材で製作される変遷を辿ることが明らかとなった。
亀田修一「古代宗像の渡来人」
津屋崎古墳群の周辺には、朝鮮半島との関わりを示す資料が多く見られ、渡来人の存在を示す証拠となる。それは、海岸部だけでなく、内陸部にも多く存在することが確認でき、鉄器生産にとどまらず、陸上交通、農耕地・水路などの開発、須恵器生産、木工製品生産、馬飼育などとの関わりも推測することができる。
笹生衛「沖ノ島祭祀と古代の神観念」
宗像沖ノ島祭祀の意味は、古代の神観念を抜きは考えられない。『記紀』で、宗像三女神は、島・海辺に「坐す神」として語られる。これは、海浜とその沖合の島、さらに玄界灘のただ中の島という自然環境が持つ、海上交通上の働きに神霊を感じ、祭祀の対象としたと考えられる。沖ノ島の祭祀遺跡からは、古代の人々が自然環境の中にどのように神を感じ、それを国家や地域の人々が如何に祀り接してきたのかを知ることができる。
篠川賢「古代宗像氏の氏族的展開」
8世紀の宗像氏は、一族の長が宗像神主と神郡である宗像郡の大領とを兼帯した氏族(ウヂ)である。すなわち、宗像三女神の奉斎氏族として、また郡領氏族として王権に奉仕したウヂといえる。5世紀後半には、沖ノ島祭祀に中心的に関わる集団が津屋崎古墳群の造営集団に固定化していったと推定される。この段階を、実質的宗像氏の成立とみることはできるが、「ムナカタ」のウヂ名と「君」のカバネが賜与されたのは「磐井の乱」後のことと考えられる。
亀井輝一郎「古代の宗像氏と宗像信仰」
宗像三女神は出雲との関係性を有する。宗像氏は出雲臣と同祖で、共に神郡郡司で神主や国造を兼帯する祭政一致の性格を有していた。出雲は後々まで朝廷に服属儀礼を執行したが、宗像は天武との婚姻を通じて舒明系と関係を持った。出雲国造は代替わりに部内において嫡妻を棄て神宮采女を娶り、火継式をつうじて俗性を一新し神性を身に付けた。出雲と同様に神宮采女を娶っていた宗像では、火継式に相当する「非日常」的な部内継承儀礼が沖ノ島で執り行われたのではなかったろうか。
森弘子「宗像大社の無形民俗文化財」
現在の宗像大社で行われている年間40余度の祭事の中で、無形民俗文化財の指定を受けているものは「主基地方風俗舞」(宗像市指定)のみである。しかし、中世の「御長手神事」を参考に整えられた秋季大祭第一日目の「みあれ祭」は、中津宮の鎮座する大島と宗像七浦の漁民が挙って参加し、盛大な海上パレードを繰り広げる祭である。また、「古式祭」は特殊神饌などに重要な民俗文化財的要素を含んでいる。時代の流れと共に変化しながらも、古い姿を伝えようとする人々の宗像神への変わらぬ信仰について紹介する。
森公章「交流史から見た沖ノ島祭祀」
沖ノ島祭祀の4つの時期区分をふまえる形で、東アジア諸地域との交流の始まり、5世紀の多元的通交と宗像氏に限らない奉祀の様子、6世紀の中央集権体制への胎動と倭王権による外交の一元化、7世紀の東アジアの動乱と北部九州の役割、8世紀以降の後期遣唐使の様相と新羅の動向などを整理し、9世紀末頃までの交流史から見た沖ノ島祭祀の様態を考察する。
西宮秀紀「文献からみた古代王権・国家のカミマツリと神への捧げ物」
沖ノ島祭祀に関しては、古墳時代の祭祀形態から「律令制祭祀」への移行を読み取ろうとする見解が多勢を占めるが、専ら考古遺物から語られてきたと思われる。そこで、改めて古代王権・国家のカミマツリと神への捧げ物について、文献から総合的に復元を試み、律令制神祇祭祀と宗像神(社)祭祀・沖ノ島祭祀と比較検討を行った。その結果、王権・国家-氏族-漁民という三重のカミマツリ或いは祭祀構造が、宗像神(社)祭祀・沖ノ島祭祀にみられるものであり、沖ノ島の祭祀遺物は、その観点から捉える必要がある。
山野善郎「日本における社殿の成立と宗像神社」
中国の祠令が、支配地すべてで、皇帝祭祀の権威を五感で民衆に示すパフォーマンスを規定したのとは対照的に、日本の神祇令は、幣帛を奉献し班布することを規定するだけで、祭場とそこでの祭式についてはそれぞれの土地での多様性を許容した。仏教と習合して重層的で多彩な社殿建築が成立することになった要因の一つである。宗像神社の建築の創建は不明ながら、厳島神社および平家の中世交易に中興の契機があると推測する。
秋道智彌「東アジアの海洋文明と海人の世界」
宗像・沖ノ島の文化遺産群の存在を支えたのは、朝鮮半島と北九州をつなぐ海域世界における海人の活動であった。この海域世界において、航海・漁撈・交易をになった海人の知恵と技術は歴史的な変容を経て現代に継承されている。本報告では、海洋人類学的な視点から対馬海峡の海人集団に焦点をあて、1.沖ノ島の聖地とビロウ、2.海の神饌と海藻の呪力、3.海の交易と潜水漁、4.海峡域の航海術、5.東アジアの捕鯨について検討する。以上の活発な海人の活動が沖ノ島を中心とした国家的な祭祀集団をささえる生態学的基盤となった。
小田富士雄「沖ノ島祭祀遺跡の再検討」
1954年から1971年に3次(計10回)にわたって発掘調査を実施し、3冊の報告書も1979年に刊行を終えた。その当初からかかわってきた報告者の立場から、現在の時点で進展した考古学研究の成果に照して再検討を行った。沖ノ島祭祀は開始期から国家型祭祀にランクされる稀有の遺跡であり、在地型や地方豪族の古墳・祭祀遺跡の祭祀とは異なる上位ランクに位置づけられる。また国外からの将来祭祀遺物について、私見を加えながら研究の現在を整理して補説した。
白石太一郎「ヤマト王権と沖ノ島祭祀」
沖ノ島祭祀の始まりは4世紀後半と想定される。この時期、高句麗の南下による朝鮮半島の情勢緊迫化にともない、百済を援けるため朝鮮半島へ出兵することになった倭国、即ちヤマト王権が航海の安全を願って行ったものであろう。これを契機に、多くの渡来人が優れた技術や文物を倭国に伝え、文明化を促す。このヤマト王権による新しい倭・韓交渉に宗像の勢力が大きな役割を果たしたことは、5世紀後半から6世紀における津屋崎古墳群の発展からも疑いない。
禹在柄「竹幕洞祭祀遺跡と沖ノ島祭祀遺跡の比較研究」
百済西海岸の沿岸航路上に位置する竹幕洞祭祀遺跡は海岸祭祀のみならず航海中の物資の補給、船員の休憩のために設けられた港の役割をもつ兼用祭祀遺跡であったと見られる。一方、沖ノ島祭祀遺跡は緊急時の船舶の避難と航海の安全を祈願する祭祀のために設けられた専用祭祀遺跡であったと思われる。両遺跡は航路上の最も危険な海域に位置する点、通常の航路が広く眺められる場所に位置する点など共通する地理的景観をもつ。

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